Interview:高橋美穂
●『MUSIC LIBRARY』 がリリースされたのは、12年前になりますね。
最近のような気もしますし、もう10年以上も経ってんだ、みたいにも思いますね
●まずは再発の経緯から伺えますか?
まず一番の理由は、この6月で40歳になるんですよ。自分が40歳になるとも思わなかった…いつかなるとは思っていましたけど、せっかく節目だし、まあまあ普段もオレがオレがの精神でやらせてもらってますけど(笑)、さらに自分の中で自分のことを振り返る良い機会として。そこで、昔にソロを出したいなと。当時は全く取材も受けず宣伝もせず、ただ出しただけだったんですけど、今になってちょっと聴いて欲しいなって気持ちもあり、まぁでも、40歳の記念にっていうのがデカいです。手前味噌で申し訳ないです(笑)なので40年目は色々個人的な動きでやろうと思ってます。
●40歳の節目って、大きいですか?
おっきいっすよね。人生が80年だとすると、半分かな、みたいな(笑)。また半分もあんのかな、とも思いますけど
●30歳になった時とは、違います?
全然違いますね……30歳になる時は、無職だったんで。SCAFULL KINGもやってなかったし、本当に何もしてなかったんです。だから30歳になる時は、超憂鬱だったんですよ。もちろん、今はそういう気持ちはないですから
●スキャフルが休止したのが2000年の1月の渋谷AXの3デイズ、そして『MUSIC LIBRARY』 がリリースされたのはその年の11月ですよね。そのあたりは、田上さん的にどんな時期だったんでしょうか。
まず、スキャフルを休止することを決めたのは、AX以降なんですよ。今年はもうこれでやんなくていいんじゃない? 去年すごく頑張ったからってほんと軽い感じで話しているうちに、メンバーの中では、次へ一歩で解散してもいいんじゃない? いや、続けたい、みたいな色々な話も出てきて、僕はそれすら決めずにどっちでも良かったっていうのもあるんですけど、解散するのもなぁ……って、取り敢えずグレーにしたんですよ。 リハもライブも何も予定をいれないってだけ。その時がきたら、勝手に解散、消滅するだろうし。また始まるかもだし。とまってしまったのは僕がスキャフルをやりたくないと思ったのが発端だったんです。まあ、いろんな感情、感覚で人生で一番疲れていた時期というか。30歳前って、気持ち、考えが変わる時期だと思うんですよね。いよいよ子供から大人に変わる、じゃないですけど、現代の成人式は30歳くらいでいいんじゃないかと思うくらい。ふわふわとした毎日を送っていました。すげぇ遊びたいわけでもなかったんですけどね。ただ、今のままじゃいけないとか、変わりたいとか、そういう願望はかなりあったと思います。スキャフルともうちょっと違うことをしたいと思ったのか、わからないですけど、とにかく変化を必要としていた時期というか
●そういった気持ちが、ソロ作品に向かわせたんですか?
いや、ソロは、スキャフルがまだ活動していた時に、録り始めていたんですよ。3枚目のアルバムの『SCAtegory』には、僕らもかなり満足していて、レーベルの方も良いものができたと思ってくれていて、『田上くん、次、遊びでふざけた展開してみない? そういうことしてみないと、次のスキャフルは生み出せないかもね』みたいに言われて。その提案が、僕の気持ちとバッチリ合ってしまって、何か新しい展開やりたいなって思って、ちょこちょこ録ってはいたんですよ。それをソロアルバムとして出すとか明確にあったわけじゃないんですけど、半分実験、半分遊び、半分適当、みたいな感じでやっていたんですよね。だから、休止になって作り始めたわけじゃないんですよね。スキャフルは、パンクとかスカコアに突出したバンドだけど、違う音楽ももちろん好きだったんで、そういう音楽も将来いつか作りたいと思ってはいたんですよ、スキャフルというバンドの中で。でも膨れ上がりすぎてもう自由に出来ないって思ってしまったんです
●スキャフルと違う音楽性のアウトプットを求めた結果、ソロという形態になったと。
はい。でも、僕が知っている限りでは、当時はソロをやっている人ってまわりにはあまりいなくて。市川くんはいましたけど、彼はSUPER STUPIDが休止してからソロになったじゃないですか。だから、バンドとソロを並行してやっている人はいなかったんですよね。だから、そういう概念もなかったんで、レーベルの人に言われて、そういうことやっていいんだみたいに思いました。今でこそ、たくさんのバンドマンがソロ出したりして、解散や休止からソロへ、みたいな流れより、バンド活動と並行してやられている方も結構多い気がしますね
●流れからは、スキャフル休止からソロを作ったように見えますよね。
そうですよね。だから、ソロの曲には、多分スキャフルの曲になるかもしれなかった曲も、覚えていないですけどあったはずです。ただ、合わないからスキャフルの曲にしなかっただけっていう
●新たに興味が出てきた音楽性もあったということですか?
当時は、エスカレーターレコ―ズ周り、ニール&イライザ、cubismo grafico、YUKARI FRESHさんとかに刺激を受けていて、みんなソロ名義でやられてたじゃないですか?そういう世界が、バンド出身の僕の中では真新し過ぎて、バンドじゃないのにCDを出しているっていう感じが新鮮だったんですね。今でこそトラックメイキングっていう言葉が一般的で当たり前になっていますし、家で録ってたり色々な音楽形態で活動している人も多くいますけど、そういう、エスカレーターレコ―ズの前衛的なところからの影響は、大きかったです
●じゃあ、サンプリングとかの手法も含めて、学びながらソロを作っていったんですね。
そうですね。バンド出身の僕は、ほっとくとドラム、ベース、ギターどうするみたいなバンド的な感覚で制作になっちゃってしまいがちで、そういったバンドバンドでない考え方でやってみたかったんです。チャーベくんがcubismo grafico名義で作品を出していた頃に、毎日のようにスタジオに遊びに行っていたんですよ。楽しかったし、刺激的だったし。だから、一人で作ることの手法に関して、チャーベくんの影響はデカかったですね。バンドじゃなくって一人で作っている、じゃあドラムは?ギターは?ベースは入ってます? 誰がやっているんですか?って思ったし、バンド=ライヴ=メンバーみたいなイメージで育ってきたから、チャーベくんを見ていて、ああ、いいんだこういうのやってって知ることができたので
●一人でできることに気付いたことが、スキャフル休止の一因だったりするんですか?
いや、スキャフルの休止と僕のソロ発売は全く別ですね。スキャフルは、本当に単純にやりたくなくなっちゃったんですよね。人気もそこそこあって、たくさんの人に聴いてもらってたと思うんですけど、なぜか面白くなくなっちゃったんですよね、急激に。大きい目標を達成したのか飽和したのかわかんないですけど。だから、ソロ始めたからスキャフルをやりたくなくなったわけじゃないです。メンバーと仲が悪くなったわけでもないんですよ。ソロをレコーディングしていたスタジオに、スキャフルのメンバーはみんな遊びに来ていましたからね
●じゃあ、時期が重なった?
そうですね、心変わりの時期が。言われてみると関係なくもないかもしれないですけど…スキャフルに関して言うと自分勝手な話なんですけど、僕はソロを出したら再始動したいなと思っていたんです。そうしたら、その後でKENZIがソロを出すことになって。俺がソロを出しておいてKENZIはだめだよ、スキャフルやろうよとは全く言えなくて。ましてや、いい作品が出来上がっているっぽかったんで。それは絶対出すべきだなと。そうこうしているうちに、他のメンバーも、各自の事をやり始めて、物理的にどんどんできなくなっていったんですよね。僕自身もその後、FRONTIER BACKYARDをやる方に向いていったというか。だから、休止宣言もしていないうちに時間だけが過ぎていって…でも、みんな当時は、だらしなかったはずなんですよ(笑)。社会性を帯びていないというか。わざわざ休止するって言わなきゃいけないの? バンドってそんなもんでしょって思っていたし、時代ですかね
●音楽を作ること自体を休みたい、という気持ちにはならなかったんですね。
それはなかったですけど…レコーディングの細かい話になっちゃいますけど、ソロは、曲をしっかり作りこんでからレコーディングスタジオに入るのではなく、モチーフだけ持っていって、コーヒー飲みながら、遊びながら作りたいなあって思っていたんですよね。レコードを聴きながら、こういう曲を作ってみたいなって思って、やってみたりとか。新しい楽器買ってきて試しに1曲つくってみたいな、とか。結構ダラダラやっていて、途中昼寝もしていたし(笑)。スタジオに遊びに来てくれた、市川くんや古川(ex.DOPING PANDA)にも、ちょっと時間ありますか?せっかく遊びにきてくれたんだしって、軽い気持ちでギターを弾いてもらったりしましたからね。ラフだったなと思います、今思えば(笑)。とは言え、何に追われることもなく、勝手にやりたかったんですよね。そういうふうに生きたかったんです。何に縛られているかわからなかったけれど、自分が縛られていると思っちゃっていたので。ただ、3日間で1曲作ろうとは決めていたので、今月は3回スタジオに入って1曲できた、次の月は5、6回入って2曲できた、とか、そういう感じでした
●今一度、楽しんで音楽を作るっていう純粋な場所に帰りたかったんですかね?
そうそうそう
●言うなら、リハビリですよね。
完全にそうでした。だから、発売の際に何も宣伝もしなかったんです。宣伝してまでも聴いてもらうようなものじゃないと思っていたので
●自分自身のために作ったから、というか。
それがでかいかもですね。限定にしたのも、枚数を言うと(5000枚)、今と昔は時代が違うんであれですけど、僕のことを好きだって言ってくれる人がちょろっと聴いてくれればいいやっていう
●じゃあ、即日完売のニュースを聞いた時には、どんなふうに思ったんですか?
申し訳ないなぁって(笑)
●音楽性としては、FRONTIER BACKYARDの布石に聴こえますよね。
うん。完全に違うんですけど、そういうふうにも聴こえますね。ギターを歪ませないとか、シンセベースとか、自分にとって歌っぽくて、静かな音楽がやりたかったんですよね。シンセや打ち込みっぽいものも好きだったんで、そういうのを好き放題やろうと思って。そこで、田上のこういうところは意外で凄いって言ってくれていた人も、逆にこんなのクソだって言っていた人もいたことは知っていて、でも、そんな評価も別にどっちでもよかったですね。悪口言われても褒められても、本当に関係ないと思っていましたから
●そして、そこからはまたソロを作るわけでも、バンドを結成するわけでもなく、音楽に本格復帰するのは少し先のことですよね。
そうですね。CUBISMO GRAFICO FIVEも最初のリリースは2003年ですからね。キュビファイブスタートまでは、僕はMASTER LOWしかやっていなかったから、プロデュース業や裏方的動きをちょっとするようになって、ドーパンと作業したり遊んだりしていて。そのうちに、まただんだん創作意欲が出てきたというか。それまでは、毎日毎日遊んでいましたね。昼間サッカーやって、夜は飲みに行って、朝までクラブで騒いで、またサッカー行って。その当時一緒にやっていたバンドのライヴとかは、見に行けなかったです。いろんな気持ちになっちゃうから。それでもMASTER LOWは動いていたので、人前に出ることはあったんですけど…。気持ち的には音楽をできるだけたくさん聴きたいなあと思っていました。ライヴの現場でも、ギリギリまで自分で作ったセレクトCDを聴いたり、たくさんCD買ってきて聴き倒して楽しんでいましたし
●MASTER LOWに参加してなかったら、表に出る場所は暫くなかったでしょうね。
そうじゃないですか。僕どころか、スキャフルのメンバーみんな
●そう考えると、改めて、スキャフルのファンにとっても、メンバーにとっても、大きい存在ですね、MASTER LOWは。
そうですね。だって僕、一番長くやっているバンドが、サポートですがMASTER LOWですもん(笑)。スキャフルも長いけど、2000年以降は10回くらいしかライヴをやっていないので
●そんな中で、フロンティアに向けて加速していくキッカケは何かあったんでしょうか。
KENZIがソロを出して、いよいよスキャフルのメンバーがバラバラになってきたんですよ。会う機会も少なくなってきて、だんだん寂しくもなってきて。あと、ソロを出してみたんですけど、案外面白くないかもというオチに至りました。KENZIも、後々で自分がソロを出したことについて、あんまり画期的でなかったって言っていた気がします。要は、ソロは全部自分が好きなことができるじゃないですか、それが案外面白くなかったですよね。自由過ぎてというか(笑)バンドのメンバーと音の事で多少意見ぶつかったりする方が楽しいんです、それによって自分の想像以上のものが作れたりするから。で、また何か一緒にやろうかってFRONTIER BACKYARDがはじまったんです。その頃、年下のカッコいいバンドもどんどん出てきて、ジェラってきて(笑)しかも、そういうバンドのこが、たまに俺たちのこと好きだったって言われると、今の俺ってダメだな、カッコイイ若いバンドと一緒にやりたいなって思ったし、そういうところで掻き立てられましたね。あとは、レーベルの大塚さんに、『田上くんは四の五の言わず黙って歌って!』って凄くはっぱかけられた時もあって、あの時は自分が情けなく感じましたね。何やってんだ俺!? サッカーやるために東京でバンド組んだんじゃねえなって
●音楽をやれじゃなく、歌えって言われたんですね。
そうなんですよね。自分のバンドやれっていう意味だったんだと思います。FRONTIER BACKYARDをやる前だったんですけど。すごく覚えています。有難い言葉でした
●でも、確かにキュビファイブも始動していたけれど、FRONTIER BACKYARDで田上さんがカムバックしたっていう印象が強いんですよね。
そうですかね……元々のパートがボーカルだからですかね。でも、キュビファイブも凄く勉強になってて、チャーベくんが生で鍵盤を弾く機会をあたえてくれて、感覚も変わりました。その頃は凄く音楽人格の形成の時期になりましたね、時間もまあまああったので、スキャフル扱いをせずフラットに接してくれる色々な方に出逢えたので。
●MASTER LOWでもそうですけど、フロントじゃない立ち位置によって、得たこともあるんじゃないですか?
うん。ボーカルってメンバーやお客さんからこう見られているんだって気付けたりとか、バンドの本質を客観的に見れるようになった。それで、自分もまた本気でバンドがしたい、っていうか歌いたくなったんですよね
●じゃあ、周りのおかげというところもありそうですね。
完全にそうです。周りに恵まれていたと思います。普通は遊びまくっていたら、周りは誰もいなくなっちゃいますよね(苦笑)。プラプラしてたら、何だこの人!?って。20代後半から30代前半の、元気でクリエイティヴィティな脳ミソを持っている時にものすごく遊んでいましたからね。今考えるとダメだなあ、生産性が全くなかったなと思います。あと、スキャフルのメンバーが、遊んでいる時間を許してくれていた事が良かったのかなと。あいつ超嫌いって言われたら、関係はそれまでだったでしょうね
●みんな田上さんに歌って欲しかったんだと思いますよ。
わかんないですけど(笑)。ありがたい話です。その頃は、色々な葛藤が非常にありました。どうしたらいいんだろうって、なんとなく時間が解決してくれる気はしてましたが... 。
去年解散したNIW! RECORDSの後輩、Riddim Saunterのみんなも、もしかしたら今そういった時期なのかなって思いますね。見てると似ているところもあるから。僕、ソロを28歳で作って、29歳で出したので、啓史(Keishi Tanaka)のこないだの初ソロとほぼ同じ歳で。気持ちもわかるし、ただ、今はまだまだプラプラ遊んでてもいいんじゃないのとも思うし、今こそ遊んでちゃダメだよなとも思うし。あと、TA-1は、鍵盤とデザインにさらにガーっていってるじゃないですか。バンドをやりなよ、ドラムを叩きなよって思うけど、俺もそうだったよなぁって(笑)
●本当に重なってますね(笑)。
俺らインディーだから、自分のことを自分で決めなきゃいけない場面が多々あるんですよ。メジャーだったら、例えば会社との契約があるから辞められないとか、本当はその方が当時の僕らにはよかったんじゃないかなって思うんですよね。もしかしたら決めごとがあった方が、それに向かってやるタイプなのかもなって
●今はどうですか?
今は昔よりはうまく続けていくって事に関しては、多少自制ができるようになったかもしれません。
●FRONTIER BACKYARDのスタンスが確立されたところも大きいんじゃないですか?
そうですね……ただ、凄く時間が掛かるバンドだなとは思いますけどね。わざわざスキャフルをやめて、同じようなことをやっていると考えると、それは生産的な面でですけど、わざわざ作って壊して同じようなことをまたやっている……いよいよバカみてえだなって思いますけど、結局、バンドってものが好きなんですね。FBYは自分達がやれる水準は絶対落とさないようにしていて、ちょっとづつかもですが成長してて楽しいですし、途中で飽和しないようなやり方を見つけたので、続けていけるのかなと。あと、FBYのメンバーの個々の活動への理解力なくてはできないですね。バンドやってソロもやってるミュージシャンが増えて行く事は、結果バンド自体が良くなっていく事に繋がるとも思うので、僕はその方が健全なミュージシャンでいれるかもですよ~って思います。
●でも、当時と今が決定的に違うのは、FBY、スキャフル、MASTER LOW、キュビファイブ、THE DEKITSとか、いろんなことを並行して活動しているじゃないですか?あー、それが当時できたらよかったんですよ。これはこれ、それはそれって発想ができたら、スキャフルを休止しなかっただろうし、ずっとやらないっていうこともなかったと思うんでですよね。僕の思い違いかもですが、BRAHMANがオバグラ(OVERGROUND ACOUSTIC UNDERGROUND)をはじめた時に、なるほどって思ったんですよ。BRAHMANのメンバーが全員いるバンドで、全く違う音楽をやっていてバランス良くやっているって。今、僕の中は、そういう棲み分けみたいなものが自分の中できっちりできているから、どれをやっていても分け隔てなく楽しいし、意味のあることをしている、させてもらっています
●いろいろやることが性に合うって気付けたんじゃないでですか?
ですね。どれも適当にやっているわけじゃなく、真面目にやっているんです。これは遊びバンドで、みたいな考え方もあるじゃないですか。でも僕はそういうのは一切なくて。どれも真剣に取り組んでいます。THE DEKITSも酒の場で出来たバンドでふざけてはいますけど、メンバーも忙しい中、チャンスを狙ってちゃんとスタジオ入ったりきっちりやったりしているので
●今はスキャフルもいい感じでやれているんじゃないですか?
うん。メンバーと会って遊んでいるだけでも楽しいですし。ただ、ライヴやるといつも変な気持ちになるんですよね。去年新譜を出したとは言え、昔からの曲も多いから、音楽の力じゃないですけど、その時代にグーンと僕自身が持っていかれるっていう。よくわかんなくなりますよ、何だこれ!?って。不思議だなあって。物凄い楽しい、イエー!みたいな感じとは、また違う楽しい感覚があるんですよね
●じゃあ、仲間も含めてあの頃と重なった、BAD FOOD STUFFに出た時とかは、どんな思いだったんですか?
BAD FOOD STUFF は僕らも企画に参加していたイベントだから、特別ですよね。東京と仙台しかスキャフルは出ていませんけど、同窓会っていう簡単な言葉では言えないんですよ……好き過ぎちゃって変だ、みたいな
●でも、全部楽しめているんですよね。
無理矢理やってもいいものも作れないし、それがストレスになって疲れることもわかったし。自分が面白いことをしている時が、周りにも面白く思ってもらえるだろうし。あーあ、今日もライヴか、なんて義務みたいになったら絶対にダメだと思うし、逆に面白いと思ったことは即やっちゃおうと。そこははっきりしました。十何年前の経験が生きているのかな。今弾き語りのツアーをやっているんですが、人生初のピアノでも弾き語りをやっていて、それが物凄く緊張するんです、手が震えて。何回練習してもダメだし。でも、その刺激を受けたいんですよ。普段のライヴは緊張しないんで、弾き語りは緊張したくてやっていて。ピアノ曲は間違ってもいいからセットから外さないようにしてます。今後も一人でやることももう少し突き詰めたいですね。それがさらにバンドに還元できる何か発想の源みたいになったらいいなとも。
●ちなみに、40歳で音楽を続けているとは思っていました?
いやあ、思っていないです全く。ましてや、こういうふうに色々な方に僕の音楽聴いてもらったり、ライブ見てもらったり、応援して頂けるなんて全然思っていなかったです。この環境にいつも感謝していますね。今は、もっともっとさらに知って頂きたいし、若い人にも見て欲しいし、よりいっそうオヤジのミュージシャンがやるべきことを考えていますね。東日本大震災があり、ミュージシャンという僕のやれる事を全力でやるべきだと思いましたし、前は社会性が全くなかったから。ちょっとは大人になったかな(笑)
●それでも、20代の頃も音楽で食べていきたいみたいな思いは少なからずあったり?
いや、あんまりきちんと将来を考えた事はなかったけど、ぼんやりとテレビ業界に入りたかったんですよ。放送作家とか、制作会社に就職してみたいなとか。音楽で食っていきたいなんて全く…。未だによくわからないんですけど、これは仕事なのか?仕事じゃないのか?って思うことがあって。全部が仕事って言えば仕事ですけど、全部が遊びっていうか楽しみだし。僕らがまず楽しくやらないとみんなを楽しくなんてさせられないですからね。
●お金をもらっているものを全て仕事と考えるのか、お金をもらっていても好きでやっていることは楽しみと考えるのか、とか。
そうですね。見てくれたり聴いてくれる人がいるのは、ほんとうにありがたいと思ってます。いなかったらやっていないと思いますよ。いなくてもやれるって言うミュージシャンもいると思いますけど、僕は見聴きしてくれる人に応えたいし、楽しくさせたいなっていうのを今はすごく中心に考えていますからね。
●自分も楽しむから、受け手側も楽しませたい、お互いに楽しもうっていう感じですか。
そうそう、一緒に遊ぶぜっていう感覚というか。2000年以降はクラブも行くようになって、それはそれで楽しくて。クラブって、空間を楽しむじゃないですか。深夜で、狭くて、お酒があって、喋って、踊って、ああいうのはいいなあと思う。いろんな遊び方があるし、アーティストとして、楽しいことを提供できたらとは思っています
●エンタテインメントというか。
そこまで大きい事ができるとが思わないけど、ただ、投げっぱなしでライブ見られたり、CD聴かれたりするよりは、少しでも印象に残るようなものを残したいし、そういう動きをしたいと思っています。
●自己満足ではなく、ということですね。
その段階は若い頃に終わったんですよね。今は、みんなと満足する、みたいな方がいいかなって。それに、自己満足はいつになってもしないと思うんですよね。人からどう思われているかもやっぱ気にもなるし、いい曲だねっていわれた方が勿論嬉しいですし。俺はやりたい事やってるから、あとはどう解釈されてもいいぜ、みたいになれる人っていいなあとは思いますよ。自分が良ければいいっていうのは、性格的になかなか僕はなれないですね。リスナーと同業者とすべて相対的に考えてしまうんで。でも、そういうふうに一回だけなったのが『MUSIC LIBRARY』なんです。ほんっとに失礼だけど適当に作ったところもあるんですね。かと言って、どうでもいい作品を出したわけではないんですけど
●いや、いい作品が蘇ってくれてありがたいですよ。
今は聴いて欲しいと思っています
●MUSIC VIDEOとかも当時は……。
何もないす(笑)
●12年越しで『HOT FAN IN ONE SUMMER DAY』のMVを作ったののは、今一度聴いて欲しいと思ったからでしょうか?
そうですね。あと、僕の小さい時の映像も入ってるんですけど、それを、残しておいてもいいかなって思ったんです。50歳に向かうために一からやっていきたくて、その励みにするために。
●とは言え、よく映像も残っていましたね。
そうそう。たまたまうちの親が8ミリを借りてきて回してたんですよね。自分でも見たかったので、業者に出して8ミリをDVDにしてもらって、まるで玉手箱ですけど…見てみたら全然可愛くなくて(苦笑)、やべえ、こいつが近所にいたら、絶対に俺は可愛くねえって言うなって。マジで冷めてるんですよね。単純に顔も可愛くない(笑)
●そんなことなかったですよ(笑)。
親が親だからしゃあないな~、それも含め自分なんだなって再認識はできました(笑)
●『doubt!』のブックレットのインタヴューにもありましたけど、小さい頃からピアノはやってたんですよね?
幼稚園から小学校くらいまでもの凄く音痴だったんで、音楽の歌の時間とか大嫌いで、親が子供が音痴で不憫に思ったのでしょうね、ピアノを習わされたんですよね。それでまあまあ歌えるようになってきて、どんどん唄う事が逆に楽しく感じるようになれて。
●鍵盤歴はかなり長いじゃないですか。
でも途中からは、サッカーや野球がやりたくなって、習いに行かなくなりましたね。今思えばもったいなかったなって。だから、鍵盤は基本そんなに弾けないです
●あと、トランペットも子供の頃に経験があるんですよね。
それも単純に、小学校と中学校のクラスが少なかったんで、臨時的な吹奏楽部が組まれるんですよ。そこで、ちょっとは目立ちたがりだったんで、やってただけで。サッカー部と吹奏楽部の兼任でした
●でも、どちらも経験が生きているじゃないですか。
そうですね、スカバンドやるってなった時に、俺トランペット吹けるんだったってなったんです。それがスキャフルで。何年もブランクはありましたけどね
●普通、男の子が音楽にのめり込むのって、ロックバンドに出会う思春期が多いと思うんですけど、田上さんはそれ以前からだったんですね。
あー、そうですね。ロックよりはピアノの音楽とか聴いていたかもしれない。小学生で最初に好きになったのがオフコースですからね。渋すぎるだろっていう(笑)。どこか変ってましたね、今思えば。
あと、田上家が音楽好きだったんですよ。父がちょっとフォークギターを弾けるくらいで、凄くジャズやソウルのレコードがあったりするわけでもないんですけど、なんか変わったミュージックテープとかたくさんあった覚えがあります。でも、まぁ、親はバンドやって欲しくはなかったと思いますよ(苦笑)
●(笑)。本格的にバンドをはじめたのはスキャフルですか?
そうです。高校の時にインスタントなバンドはやっていたんですけど、同級生の忠章くん(SCAFULL、FBYのドラム)に憧れていて、タダコとバンドが組みたくて、一緒にライヴばっか見に行っていて、そっからっすね、バンドをちゃんとやらない?って。当時から忠章くんは目立っていましたから、あんなドラムとバンドしてみたいなって思って。僕、忠章くんよりもさらに田舎に住んでいたので、頭の中の悶々ぷりったらハンパなくて、組む前からいろいろ考えていたんです。タダコがドラムで俺が歌ったら絶対いいはずだ、こういう曲を作って、俺がリーダーやる、とか(笑)。かなり確信犯的に動いていましたね。タダコに、自信もないのに自信がある体で話して落としました(笑)
●初期に活動が止まったこともありましたよね?
まあ、メンバーが単純に見付からなかっただけなんですけど。その時も深く考えてなくて、メンバーいないから止めるか、くらいな感じで1、2年止めていましたね。それでメンバーを探して。CD出すまでは長かったですけど、ずっとライヴはやっていました
●再開には、KENZIさんの後押しがあったそうじゃないですか。
そうそう。『僕が何でもやるんで、やりましょう!』って言っていて。元々ケンジを入れたかったんですよね。ギタリストとして目立ってたんで。たまたま年がちょっとだけ離れていたんで、卒業とか、東京に来るタイミングが合わなくて
●そこから、スキャフル後期(2001年)までは楽しかったですか?
いや、基本的にはずっと楽しかったですよ。やめたいと思ったのは一瞬、一回のみでした。ずっと、みんなと冒険をしているような……まず、田舎もん過ぎて、ライヴハウスにどうやって出ていいのかもわからなかったし、東京でどうやって友達を作るかもわからなかったし。そこから、ライヴを見に行けばいいんだってなって、チラシ撒いたりデモテープ作ったりして。で、CDを出してからもいろんなバンドと知り合っていって、で、徐々に認知され、人気も出てきて、最初は単純に全てが新しい経験で楽しくて浮かれていたんですけど、だんだん、浮かれてられないなとか、いろいろ先々を考え出しちゃったんですよね。『SCAtegory』のツアーのケツくらいから。時代もあいまって、全カ所ソールドアウトとかで…今でこそ嬉しい事だったなと思いますけど、当時は売り切れてありがたいなっていうより先に、なんでまた売り切れてるんだって。そこまで凄く良いと思ってやってないから、必要以上のリアクションがあって戸惑ってたんですよね。プレッシャーもあったと思うし。それほどでもない音楽なのに売れている、ということは俺らの音楽をちゃんと聴いて判断してくれていないのかなって思うようになっちゃって。で、じゃあもっと音楽だけを突き詰めたいなって、最初の方に話したところに繋がっていくんですけど
●のん気に浮かれっ放しだったらどうなっていたんでしょうね。
でもねえ、今思えばそれでやっていても、2000年半ばくらいでとまっていたと思います。ソロも出ず、ただ人気も落ちていってとか。こればっかりはほんとにどうなっていたかはわかんないですけどね...
●自信とリアクションが比例しなかった、というか。
あぁ、それはありました。誰かの何かのインタヴューで読んだし、僕らのライブでも起こっていた事なんですけど、ライヴをまだはじめていないのにSE流れただけでモッシュとか、ライヴをはじめても、ステージでお客さん暴れちゃって危ないからすぐに演奏止めなきゃとか。そういうのがだんだんストレスになってきて、ちょっと聴いてくれよ~って。コントロールするにもお客さんも喜んでくれていることは確かだったんでしにくかったですし、ライブもやるにも自分らのテンションを整えるの大変になっていった気持ちがありました。今なら、当時の自分に我慢しろよ!って言いたいですけどね。真面目だったんだと思います。それ以降はいい意味で不真面目を覚えたので、楽になりました。ピーズの歌詞じゃないけど(笑)
●『バカになったのに』ですか(笑)。素晴らしいバンドがたくさん出てきた時代でもあったけれど、熱に浮かされたような時代でもありましたからね。
確実に流行だった部分もあったと思うし、それは自分らでもわかっていたので、危険だぞって。だからよりいっそう音楽のことをしっかりしなきゃってなっちゃったんだと思います
●FBYの初期も根詰めていましたもんね。
あー、最初の頃はそうでした。こうしたいっていう拘りが凄くあったし、とにかく人と違うことをして、流されないようにしようってすげぇ思っていました。あんまりオープンな形でもやってなかったですしね。自分達中心で斜に構えていた印象があります。
●さっき弾き語りの話でも出てきましたけど、今後の展望はありますか?
40代から50歳に掛けては、いかにリラックスしてやるかがテーマだと思っていて。弾き語りとかではできるだけリラックスしてふざけたいと思っているんですよね。あと、やったことないようなことをできるだけしていかないとダメと思ってて、だとしたら、どれだけ力を抜いてやるかっていうのもその一つだなって。今までは精一杯やっていたんですけど、手を抜くのではなく、力を抜いてやるのって難しいんですよね。それができたら、50歳までやれるかなって思っています
●こうやって話を訊いてきても、どのキャリアも必要だったんだな、って思います。
やったことが結びついていくと思うから、今は幸せなんですよね。絶対に、無駄なことはないと思うんですよね、何事においても
●どんどん、形態的にも音楽的にも、独特の遍歴になってきましたよね。
そうですね。ちょっと複雑になってきましたね(笑)。世間にはわかりにくいですが、それが長く続けるコツかなって思っていて
●でも、どの形態においても、田上さんは田上さんらしいですよね。
そうですね。もちろん、僕がリーダーじゃないバンドもあるんですけど、なるたけ自分のやれる事、カラーを出そうとは思っていて
●スキャフルで田上さんを知った時はフロントマンの印象が強かったんですけど、それ以外の場所でもすんなり溶け込んでらっしゃいますよね。
僕がスキャフルフロントマンでどれだけ目立てているかは別として...(笑)昔から良く耳にしたのは、イッチャン(LOW IQ 01)、タカ(BACK DROP BOMB)、トシロウ(BRAHMAN)とスキャフルの人たち、みたいな括りで言われてたんですよ(笑)僕自信、自分が地味だっていうのもわかっているし、逆にそれは後ろにも廻れて、色々な事ができるって発想に変えていきましたね。
今いくつか僕がボーカルでないバンドしてますが、各バンドのボーカルに合わせて、バンドを理解して動くことも楽しいので、個人的にボーカルとして僕が目立てないなんて全く苦痛じゃないんです。
それこそさっきまでスキャフルで歌っていたのに、MASTER LOWのときは座って地味にギター弾いているわけですから、そこで、俺カッコ悪いなと思ったことは全くないですね。まあ、本当はそういうことはボーカルというバンドの顔みたいなパートの人はすべきじゃないかもですよね(笑)でも、そうすると、それこそ昔堅気の芸能のバンドみたいになっちゃうじゃないですか。お前はバックに回るべきじゃない、スターでありなさいみたいな。それはダサいなと思う
●こうしてみると、華やかなフロントマンであり、的確なバックミュージシャンにもなれるっていう、なかなか他にいない立ち位置を築いてるなあって、改めて思います。
あぁ、そこに気付いて頂けると嬉しいです!もっと突き詰められるように努力したいです
●若いバンドのプロデュースもたくさんされていますけど、そこでは完全に裏方になるわけですしね。
そうですね、そこは若者と同じような会話をして、同じような行動をして、同じ夢、目標を具現化させるため一緒に頑張ってますね。なるたけ同じ目線で話すようにしています。理解しようと思ってもできない部分もたくさんあるんですけど、それはそれで楽しいですね。
●振り返ると、この12年で、本当にいろんなことをやってきましたね。
ああ、そうですね。これからもやりたいと思ったことはすぐやるし、それが積っていけばいいんじゃないかなって。それを出たがりと言われれば困りますけど(笑)、やりたがりって言われるのは全然いいなって思っています
●それで忙しくなるのは、構わないですか?
そうですね。全然構わないです。たくさん仕事して、そしてたくさん遊びます。個人的には予定は早い順で決めているんで、そこは自己責任でスケジュール管理し続けて頑張るしかないですね
●再発にかこつけて、人生まで訊いてしまいましたが(笑)。
初めてです、こんなに自分のことを話したの。嬉しいやら、手前味噌過ぎて、申し訳ないやら(苦笑)
●いやいや、せっかくの40歳記念なんですから!
結構恥ずかしいんですよね。自分で40歳だから再発するかって言っておいて。でも、記念としてこの一連の動きを自分のために残そうと思って、こういうロングインタビューもしてもらってるのも含めです
●50歳って想像できますか?
想像できないけど……30歳から40歳って、あっという間だったから、この後の10年もきっとあっという間な気がします。疲れたなって寝てたら2年くらい経ってたりとか(笑)。まあでも、今までも、後悔していることも良かった事もいっぱいありますし。色々がすべて自分の身になっているんでしょうね。40歳、本当にみんなのお陰です。家族、バンドメンバー、スタッフ、先輩、後輩、みんなに僕は支えられているんだと思います
2012.06